犯罪と認知

犯罪者、というラベリングは、そのまま悪という認知を大衆に与えがちだけど、犯罪に至るには、本人の内的心的な複雑な事情がありえる。

例えば、 大学准教授(45)講義中に突然、女子学生の首にパソコンコードを巻きつける http://0taku.livedoor.biz/archives/4130199.html #MT2

どう考えても犯罪なことでも、本人の「その時」において、犯罪と判断できないときがある。それは、心の迷いであるかもしれないが、そのような状況に置かれたという本人の苦しみもないわけではないだろう。


だが、そんなことは他人には分からないし、実際に単純に「悪」な思考のもと、いわゆる罪の行為に走る輩も当然いるだろうことは否定できない。


ただ、いわゆる凶悪犯罪、例えば秋葉原事件や神戸での少年Aの事件も、そのときの本人の心的状況では正常な判断ができない状況まで追い込まれたという環境の問題もありえる。決して本人だけの問題ではないかもしれないということだ。責任は本人にあるとしても。


そのような精神状況は、不安障害の患者が普通の人が不安と認知しない状況を不安であると認知することや、強迫性障害の患者が強迫観念に苦しめられることなどと、機能的には同じだ。



つまり、犯罪者の精神状況と精神疾患の精神状況は、ある意味、似ているともいえる。「正常」な認知にミスっているという意味で、だ。


そのような、ゆがんだ認知をしてしまうのは、物質的に成熟した先進国ならではということはある種社会学の定石である。


そのような社会状況の危うさを摘み取ることが、犯罪にせよ、精神疾患にせよ、病理的な社会を乗り越える契機とはなるのではないだろうか。



ちなみに、そのようなことは、ハンナアレント宮台真司などの政治哲学や社会学の思想では自明なことです。


いい例。精神障害→犯罪ではなく、誤った認知状況(=健常者)→犯罪のパスは大いにありえます。 “@nanachomo: 統計上知障や精神疾患患者よりも健常者による犯罪の割合の方が圧倒的に多いという現実をどう見る?>准教授が女性の首絞 http://mixi.at/a4U5c2N


しかし、誤った認知状況のもと犯罪に向かう者は、ある種、精神「障害」ではなく、精神疾患的であるからこそ、そういうことをやりえるのです。精神障害や知的障害が犯罪に走ることがあるのは、むしろ、その例の極地、であるのです。


かといっても、こういうこともあります。“@hanycafe: 成人の心理鑑定を行っていて痛感すること。「見落とされた発達障がい」が多い。見落とされ、二次的受傷を負い、その結果犯罪につながってしまう…。正しく理解され、適切なしつけ・教育がなされていれば決して犯罪に走らないのに。”


紋切り型のパターンマッチングによる事実の判断は役に立たないということですね。 古典派や新古典派の経済学理論が現実の経済の動きや政策にあんまり有効でないことと、ある種似ているとも言えますね。


だからこそ、社会と心理を両輪で語ることが必要です。 #社会学 #心理学 そして、マルクス主義の言葉を使うならば、そのような上部構造を規定する下部構造である経済や金融への視点も見逃してはなりません。社会経済状況を見て、始めて有効な社会に関する議論ができると考えています。 #経済学